ぼくが見て感じたスリランカ 24

               TANK(貯水池)     赤岡健一郎


 今回は、前回に紹介したシーギリヤに因んでTank(貯水池)のちょっと真面目な話をします。

 アヌラダプーラの王である父を殺した長男のガーシャパは追われる様にしてアヌラダプーラを離れ、シーギリヤに新しい都を築きました。父を殺した理由は、王位継承権を巡る親子間、異母兄弟間の確執でした。ガーシャパは王位を譲るように父を脅し、全ての財宝を差し出すように要求しましたが、父は自ら建設した貯水池にガーシャパを連れて行き、譲る事のできる財産はこの貯水池だけだと話ました。これに怒ったガーシャパは父を殺してしまったと伝えられています。

 この王位継承権をめぐる歴史上の話も、インドに追われた弟が復讐のために密かに帰国してシーギリヤを攻め落とすという興味深い話なのですが、興味をお持ちの方にはスリランカの歴史書やガイドブックなどを読んで頂く事として、今回の本題は歴代の王が各地に築いたTANKについてです。

 スリランカの地図を眺めていると、北部地域には多くの湖があることに気が付きます。湖の名称を読んでみると○○Tankとか○○Reservoir、○○Wewa(シンハラ語で水のある場所の意味)と書かれていて、いずれも貯水池を意味します。スリランカは北海道の80%ほどの広さしかないにも拘わらず、それぞれの湖は、地図上でもはっきりと存在が判るだけの面積を持っています。例えば、日本地図を見ると琵琶湖や霞ヶ浦が存在感を感じさせるのと同じです。

 スリランカ北部には、天然の湖が出来るような山岳地帯は有りません、乾燥した平地が広がっているだけです。地図上で見られる湖の多くは遷都の度に歴代の王によって建設された灌漑と飲料水の為の人口の貯水池です。古いものは紀元前に建設されたもので、スリランカ最古の都として栄えたアヌラダプーラ(2500年以上前から1400年間に渡って)には多くの貯水池が残されています。シーギリヤの様に、一時的にアヌラダプーラから都を移した王も新しい土地で最初に行うのは寺院と貯水池の建設でした。  文化の三角地帯の遺跡群を旅すると、キャンディを除いたどこの遺跡の傍にも広大な貯水池があります。キャンディはインドから追い詰められて高原地帯に造られた最後の都なので、広大な貯水池を作れる様な平地が無かった為と思われます。

 貯水池があるのは北部だけではありません。南部のティッサマハラーマには、紀元前3世紀頃にアヌラダプーラから避難してきた王によって築かれたと伝えられている王朝が残した貯水池が伝説と共に残されています。

 何故このような貯水池を各地に造ったかといえば、スリランカは紀元前から現在に至るまで米作を中心とした農業国家である事が考えられます。現在では、海外の出稼ぎ者からの送金が外貨獲得のトップになっていますが、つい最近まで米輸出は、外貨獲得のトップバッターでした。米作を拡大して自らの勢力を強める為には、水の確保が最優先事項でした。歴代の王は、王位を継承する度に農民達に自らの権力を示すためにも、新しい貯水池を建設する必要がありました。

 驚かされるのは、紀元前の物も含めて各王朝の時代に建設された貯水池と、これに付随する灌漑用水路、飲料水の配水網、下水施設などが手入れを繰り返して現在でも利用されている事です。もちろん、スリランカ人の大好きな水浴にも使われています。

 僕は建設会社の職員としてスリランカに駐在していたので、これらの貯水池や付帯施設の改修工事に参加する機会が多くありました。工事を始める前には必ず、現状調査を行うのですが、現在でも利用されている事だけでなく、建設された当時の技術の高さにも驚かされます。

 現在の様な重機械が無い時代に、どの様にして止水し、高い堤や排出口を構築したのか、どの様にして設計・測量したのか、人海戦術で工事をしたならどのくらいの人数と時間、費用が掛かったのだろうか、同僚と首を捻るばかりでした。

 勿論、僕たちは貯水池の改修ばかりしていたのではありません。現代の貯水池とも言えるダム建設にも参加したので、ダムの背後に広がるダム湖がスリランカの地図上ではっきりと見る事ができます。ひところ流行った地図に残る仕事という奴ですね。

 貯水池は観光客にとっても素晴らしい場所です。遺跡を訪れた観光客は見物に疲れたら貯水池の傍に立って、その貯水池を築いた王のように、水面を渡ってくる風を身体に感じながら、その日の出来事を振り返る事が出来ます。

 るのに気が付くことでしょう。スリランカに行く機会がありましたら、是非とも貯水池にも足を運んで、貯水池を渡る風に吹かれながら古の王や当時の事に想いを馳せてみて下さい。  


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