ぼくが見て感じたスリランカ19 真珠採り 赤岡健一郎 スリランカ日本武道協会/日本スリランカ文化交流協会 フランスの作曲家ジョルジョ・ビゼー(1838〜1875)と言えば「カルメン」が有名ですが、ビゼーが作曲家としての地位を確立したのは24歳の時に発表した「真珠採り(1863年初演)」であることはあまり知られていません。 このオペラでは1860年代のセイロン島北部の漁村が舞台となり、一人の美女と二人の真珠採り漁師が絡んだ悲恋物語です。でも、ビゼーはスリランカを訪れた事はありませんでした。どの様にスリランカをイメージしたのか謎です。たぶん観客もスリランカに行った事のある人は殆どいなかっただろうから、舞台を見てこれがスリランカの雰囲気だと思った事でしょう。ライオンキングを見てアフリカってこういう処だと思うのと同じ事かな。ビゼーはカルメンの舞台のスペインにも行った事がないそうです、想像力の豊な人だったんでしょうね。今回はこのオペラの内容ではなくて、スリランカの真珠の話を主にスリランカの産物にまつわる裏話を紹介しようと思います。 現在のスリランカを代表する産物としてスパイス・紅茶・宝石が有名です。紀元前からイスラム諸国によって各種スパイスが独占的に交易されていました。この豊富なスパイスが仇になってヨーロッパ各国から狙われる事になります。スリランカは最初からイギリスの植民地だったと思われていますが、先ず16世紀初めにポルトガルがシナモンの独占交易を画してスリランカを統治下におき、続いてオランダ、その後19世紀初めから1948年までイギリスの統治下にありました。現在でもコロンボ中心部にはシナモンガーデンと呼ばれる地域がありますが、その時代の名残です。 紅茶はイギリスの植民地時代に栽培が始められた比較的新しい産物です、当初はインドでは紅茶、スリランカはコーヒーの産地として計画されましたが、コーヒーの苗木を枯らす病害虫が発生した為にインドから代替え品として紅茶の苗木を持ち込み、栽培を始めました。病害虫が発生しなければ今頃は、スリランカはコーヒーの産地となっていて、ウヴァコーヒーとかキャンディコーヒーなんて飲み物が見られたかもしれませんね。 紅茶は現在ではスリランカの代表的な輸出品となって外貨を稼いでいますが問題もあります。紅茶の栽培の為に、19世紀中旬にインドから多数のタミール系労働者がイギリス統治政府によって強制的に移住されました。これらの移住者の処遇が現在でも続いているLTTET(タミールの虎)との民族紛争の一端になっています。紅茶によって富を得る事は出来ましたが、なんとも皮肉な事です。 宝石もスリランカを代表する輸出品です。ダイヤモンドを除くほとんどの宝石が産出されていると言われています。少し前ですがチャールズ皇太子がダイアナ妃に贈った婚約指輪がスリランカ産のブルーサファイアだった事からスリランカ産ブルーサファィアの評価が高まり値段が高騰したことがありました。 スリランカの人達は宝石で縁起かつぎをします。宝石が直接肌に触れるようにすると幸福を招くと云われています。特にパパラチアというサファイアの変種は持っているだけで最高の幸運に恵まれと云われています。パパラチアは「キング オブ サファイア」又は「インド洋の朝焼け」と呼ばれ、スリランカの人達が大好きな蓮の花の色をしています。スリランカが唯一の産地で極めて産出量が少ない為に幻の宝石と呼ばれています。南部にあるラトゥナプラは宝石の産地として有名な町でラトゥナは宝石、プラは都を意味します。 さて真珠の話をしましょう。かつてはスリランカ産の真珠はスパイスや宝石と並んで古来よりイスラム諸国の交易ルートを通じ、20世紀中旬まで世界中に輸出される主要産品でした。主な産地はスリランカ北西部のマルナールからチラウにかけての海岸線で、1940年代まで盛んに真珠採りが行われていました。イギリス植民地時代には北部のジャフナに真珠採取公社が設置されていました。1901年まで在位したヴィクトリア女王の王冠にはスリランカ産の宝石と約300個の真珠が輝いていました。ビゼーの歌曲「真珠採り」は、原作ではメキシコが舞台とされていましたが、このような時代背景もあってセイロンに舞台が変わったようです。 ここまで真珠の話は全て過去形で書きましたが理由があります。1940年代を境にスリランカの真珠採りは急激に衰退していきます。この頃から日本の真珠養殖が盛んになり、天然真珠を採っていたスリランカ産では残念ながら勝負にならなかったのです。 最近になってスリランカの新聞でも真珠採りの歴史が紹介され、現地でも再認識される様になりました。世界各国でも天然真珠の不揃いな形や光沢が珍重されるようになり、真珠採りの再開が期待されますが、スリランカでは当分の間は難しいようです。何故かと言うと、上記のスリランカ北部は現在でもLTTEとの戦闘が最も激しく続いている地域だからです。こんなところにもイギリス統治下の負の遺産が影響しているのは、スリランカに関わる人にとって残念なことです。 僕が見て感じたスリランカ・目次へ TOPへ |
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