ぼくが見て感じたスリランカ紹介58         囲われ料理人



世界各国にある日本企業では、同じ企業内で代々引き継いで雇っている料理人が多数います。この人達を僕は「囲われ料理人」と呼んでいます。 

 スリランカでも、ここ二十数年間の国内事情によって日本人駐在員の生活形態が変わってきたので数は減っていますが、この様な「囲われ料理人」は今でもいます。僕が駐在していた時には商社や建設会社には必ずと言っていいほど、和食でも洋食、中華でも何でもござれの達者な包丁さばきの料理人がいました。これだけでは大使館付の日本人料理人と大差無く特別な事でも無いようですが、実はこの人達はみんなスリランカ人だったのです(奥様は魔女風の発音で)。

 代々の所長さん達が後継者と業務の引き継ぎを行うのと同じように、料理人が引き継がれていました。この人達は会社に雇われていると言うよりは、個人との繋がりで雇われていると言った方が正確でしょうか。何故かと言うと、この人達の給料は相当に高額です。国立大学を出たエリート役人よりも高額な場合もあるようなので、社内のスリランカ人職員の給料とのバランスが取れず軋轢になるからですかね。今日はどこどこの所長の自宅に招待されているので料理が楽しみだとか、あそこの料理人は今一だとか内心で考えていたものです。

 僕の会社の場合にも、スリランカ南部にあった水力発電用のダム工事現場の食堂と厨房を仕切っていたラネさんという男性料理人がいました。現場の食堂とはいっても最盛期には協力会社の職員を含めて日本人職員が約60名、英国人を初めに様々な国籍の職員も50〜60名程度いた大所帯です。もちろん、この他にも数百名のスリランカ人職員もいました。

 ラネさんはこのダム現場の所長が、現場が変わる度に一緒に移っていました。一度などは、所長が他国に転勤した際に中東のホテルに転職していたのですが、数年後にこの所長がスリランカへ再赴任した時にはラネさんの就職先を探し出して、呼び戻した事がありました。所長が他国に転勤するときに、呼び戻すことを言い含めておいた訳です。

 ダム工事の現場は工期が5年以上と長い上に、立地的にも人里離れた山間部、家族帯同の職員はよいのですが、単身赴任者にとっては仕事の他には寝る事と食べる事ぐらいしか楽しい事はありません。様々な国籍の職員の士気を持続させるためにも、それぞれの味覚に合った美味しい食事で職員を満足させる事の出来る、腕の良い料理人は必要不可欠です。

 此処のダム工事現場は規模が大きかったので、工事現場で働く人たちの住居及び付随する建物をいれると一つの町の様でした。家族帯同職員の為には一戸建ての社宅、単身赴任者には24時間冷房完備・温水給湯バス・トイレ付の個室が与えられていました。大小の事務棟や会議室、病院、日本から教員を呼んだ学校、日用品を扱う商店、ゲスト用の宿泊設備。娯楽施設としては、体育館やグランド、プール、テニスコート、屋外劇場などが揃っていました。セキュリティーもしっかりしていたので、コロンボ日本人学校の修学旅行先としても使われていました。奥様方には週に何便かのコロンボへのお買いものバスツアーも用意されていました。

 ダム工事が終了した現在は、単身者用住宅はこのダムの統括官庁である電力省のVIP用ゲストハウス、その他の施設はスリランカで一番新しい国立大学の校舎として活用されています。これだけでも付帯設備のスケールの大きさが判りますね。

 ラネさんの働いていた食堂棟も凄い設備でした。全職員が家族と共に集まるクリスマスパーティ等の親睦会もしばしば行われるので、それに見合った広さのダイニングルーム。日本人と外国人職員が仕事から解放された後に心の緊張をほぐす為のラウンジ付のバー、玉つき台、カラオケ等ありました。厨房もそれなりに広く、冷凍庫だけでも6〜8畳位はあったでしょうか。此処に日本から送られてきた食料品、コロンボで調達した食料品等が山積みにされていました。

 何と贅沢な、と思われるかもしれませんが、前述したような理由で食生活は充実していなければいけませんでした。ダム工事の最盛期には24時間ノンストップで工事が行われます。職員は2交代、あるいは3交代で働き、その合間に手が空いた者から食事を摂るので、食堂も24時間営業です。ラネさん一人で全ての調理ができる訳もなく、ラネさんの数人の助手が交代で調理を手伝います。助手達はラネさんから調理技術を学んで腕を磨き、囲われ料理人やホテルのシェフ、日本食レストランのオーナーシェフとなっていきます。

 ラネさんの何が凄いのかを話しましょう。日本から議員・役人さんやらの視察団などが現場に来ると、必ず歓迎パーティが催されます。この時にはラネさんは前夜のうちにコロンボに行き、早朝に行われる魚市場の競りで大きなロブスターやインドマグロを一本まるごと競り落とし、急いで現場に戻りお刺身を作ったり寿司を握ったり、ロブスターなんかは生き作りにして宴会に出して客を驚かせます。他国からの客に対しても同じように客に見合った料理を出していました。こんな仰々しい料理ばかりではなく学校の運動会等では、ちらし寿司や海苔巻、お稲荷さんを用意したり、子供達のお誕生会には辛くないバーモントカレーや茶碗蒸しを用意したりもします。ラネさんが何処で日本料理を習ったのか聞いたことがあります。答えは、若いころにスリランカに駐在した日本人の奥様達から教わったそうです。

 数百名いたスリランカ人職員にはラネさんの料理よりも、工事現場のゲートの外に朝から晩まで地元のオッチャンやオバチャンが出店しているキャンティーン(屋台または一膳飯屋)のカレーの方が口に合っていたようです。僕も何度かキャンティーンのカレーを食べました。最初は美味しく食べられるのですが、四〜五口食べると辛さが勝ってきて、頭髪の中から汗が噴き出してくる始末です。ラネさんの料理も懐かしいし、キャンティーンで食べたカレーも忘れられない味です。余計な話ですが、キャンティーンを出店するためには、出店するための審査があるそうです。出店料だけでなく味(この場合は辛さかな)も審査対象みたいでした。


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