四川大地震・体験記         大川健三

                                     四姑娘山自然保護区管理局 特別顧問

1)地震の当日(5月12日)

 5月12日午後2時30分過ぎ、私は所用のために車を雇って四姑娘山の登山・キャンピング基地である日隆の長坪村(汶川県の震源地から標高6250mの山を越えて約60km西)から小金の町(日隆から約西50km下流)へ向かっていた。

 この道は川岸の北側を削って作られた地盤が弱い急な崖が続いている道である。長坪村から町まで30km程走った所で、突然山側から石が走っている車の前にバラバラと落ちて転がり始めた。私は山腹で誰かが工事をしているのだと思い、危ないなぁと窓から見上げた。しかし、山腹に工事の様子は見えず、遥か前方まで道路に大小の石が次々に転がり落ちている。

 車の運転手は落石を避けて走り続けたが、子供の頭位の大きさの落石が車に直撃した。落石は運良く助手席脇の窓と後窓の間の鋼鉄製フレームに当った。怪我をしなかったのは一瞬の差だった。私は怖くなり直ぐに運転手の横をすり抜けると運転手の後ろの座席に滑り込んだ。落石を避けられないと判断した私たちは、落石が少なそうな場所まで走ると道路脇に車を止め、道路の川側の街路樹(未だ細い頼りない木)の陰へ逃げ込んだ。

 車中で揺れを感じなかったので、状況が掴めなかったが、運転手が「地震だ!」といい始めた。

 その時200m位離れた向こう岸の崖で、今まで聞いたことのない、腹に響く「ゴォーッ」と言う音と共に一面に土砂が崩れて来た。茶色い濃い土煙が空高く上がりこちらの川岸に迫って来る。山側からは落石の雨を受け、向こう岸からはすさまじい土煙が迫り、私たちは逃げ場を失って立ちすくんだ。が、やがて空高く上った土煙は失せ、その後は断続的に小さな土砂崩れと土埃が上がるだけになった。

 山側からの落石も殆ど無くなったが、余震による落石や土砂崩れが怖く、私も運転手もその場から動けずにいた。

 1時間位経って、近辺の村人が乗った単車(オートバイ)が行き来するようになった。道路におびただしく転がった落石や土砂で四輪の自動車は走れない。が、単車は落石等を避けながら近辺の集落を走り回って親戚の安否や道路の状況を確認し始めたのだ。

 元々この辺りは携帯電話も通じないところで状況が掴みようがなかったが、これらの村人の話しから、文川で地震が起きた事、近辺で落石のために2人亡くなった事を知った。

 やがて2時間位経って、小金の町の方向からブルドーザーに先導された多数の車がやって来た。その日は小金の町で県と郷村の政府の会議が開かれていたが、地震発生で急遽会議を切上げた郷村の代表者たちが地元へ戻ろうとしていたのだ。私たちも、落石や土砂を退かしながら進むブルドーザーの後に続いて、その日の夕方に長坪村へ戻った。

 長坪村の住民は殆どチベット族で、昔ながらの石積みの2階建ての家が多い所である。村の中へ入ると、家々の屋根や壁が崩れたり、2階部分が全壊して周辺に石が散乱している様子が見えて来た。停電で携帯電話は通じない。発電所は地震で壊れ、臥龍経由で供給されていた汶川県の電力も絶たれていたのだ。心配だが当地の家族(妻は丹巴、子供は成都)にも日本の親戚にも連絡不能ではどうにもならなかった。
 村の人々は家から離れた場所でそこかしこに集まっていた。村の人の顔も小金の町から戻って来た村長達の顔も緊張している。私の下宿先の農家は、被害はないように見えたが、2階の屋根と壁が各所崩れ、門は扉の木枠だけを残して崩れ去っていた。しかし農家の主人と家族は無事で、1階は私が借りている部屋も含めて被害が殆どなく安堵する。やがて村全体でも死傷者が出なかった事が判ると村の人は皆、やっと気を取り直したようだった。

 その日の夜から村の人は家の外で避難生活を始める事になった。たまたまこの村は四姑娘山登山やキャンピングの基地だったためテント等の野営機材には事欠かず、また村の人々は普段から小麦粉、ジャガイモ、乾し肉、漬物等をストックしてあり、食べ物には不自由せず、生活そのものへの不安は少なく、人身の被害がなかったこともあり、村人の顔にはほっとしたような表情が有った。しかし地震への恐怖を強く感じているようだった。
 元来この地方は地震が少ない所だ。このように大きな地震は18世紀中期の金川戦役以後百数十年振りで誰も経験した事がない。
 その夜、村人たちは余震に怯えながらPETボトル入りの鉱泉水と朝沸かした魔法瓶のお湯を使い、カップヌードルやビスケットの類だけを食べて、眠れない夜を過ごした。私の夕食も下宿先の部屋に蓄えていたチョコレートとビスケットを齧りながら、お湯を貰って飲んだけだった。しかし、日本で地震慣れしている私はぐっすり寝込んだ。


2)地震の翌日以降の長坪村(5月13日~14日)

 翌日13日、私は明るくなった朝6時に起きた。多分通じないだろうと諦めながら携帯電話の電源を入れた。なんと通じた。早速当地の家族に電話を入れ無事を確認し合った。妻は泣きそうな声だったが、携帯電話の電池が切れ掛かっていた。長話は出来なかった。

 どうにか携帯電話が通じるようなり、村人は村に1台だけの自家用発電機で携帯電話を充電始めた。携帯電話が通じるのは途切れ途切れの半日位だけだったが、震源地付近に居る親戚や友人に連絡を取ろうとしたり小金や成都へ電話して状況を聞いていた。また壊れた家からストーブや食器を持ち出して湯を沸かしたり、食事を作ったりするようになった。

 しかし、この日も余震が治まらず政府の指示もでて、村人たちは殆ど家に入らず外で過ごした。また夜半から雨が降ったり止んだりで更に地盤が緩み、時々大きな岩が落ちて来ては谷間にこだましていた。

 小金県では日隆が最も震源地に近く被害も最大だった事から、この日の朝から県政府の指導者や行政担当者が訪れて村人を激励したり復旧対策を協議した。県政府の指導者は、この地方に在住している唯一の外国人であり政府機関職員でもある私に対しても激励したり便宜を図ってくれた。

 14日も余震が治まらなかったが、村人の表情は大分明るくなり、特に子供達は学校が休みになり生活の不便もあまり感じないせいか普段よりも多くの笑顔が見えるほどである。

 テレビも家から持ち出して自家用発電機に繋ぎ、ニュースも見れるようになった。しかし燃料の油が販売中止で長時間は見られない。

 夕方から時々晴れ間が広がるようになり、道路の落石が止まれば翌日は安全に道を通れそうな期待を持たせてくれた。更に、丹巴を経由して成都へ出るルート(約12時間)が通れるようになったとの情報も入り、今後の物資確保についても安堵できるようになる。


3)小金の町 5月15日

 15日になって晴れた。私は日隆の長坪村から約西50km下流に在る小金の町(県政府の所在地)に出ることにした。ガソリンが販売停止になり小金へ行く乗り合いタクシーは少なく、料金は普段の2倍だった。

 小金の町までの50kmの間で最も落石や土砂崩れの跡が酷かったのは、地震の日に私が乗った車が落石を受けた辺りである。今更ながら間の悪さと運の良さの両方を感じた。

 小金の町に近づくにつれて落石や土砂崩れの跡は減り、鉄筋コンクリート作りの家が多い小金の町は殆ど被害を受けていない。しかし安全を重視する政府の指導に従って多くの住民が家の外でテント生活していた。宿屋は泊めてくれず、仕方なく私は友人の家に転がり込んだ。

 数日ぶりに電気が有り、電話回線も使える生活環境(国際通話は出来ませんが)に戻れた有り難さをしみじみ感じた。直ちにE-mailチェックを始め、気になっていた日本の親戚へもメールで無事を知らせる事が出来た。

 小金の町は地震後、成都からの物資の供給が止まった事や余震を恐れ、食堂や商店などの半分が閉まっていたが、青果市場にある馴染みの食堂は開いていた。久しぶりに顔を見せた私を笑顔で迎えてくれ、久しぶりに旨い飯を食べられた。人生何がといって、やはり食べることの楽しさと大切さを改めて感じた。