媛媛来信 23 洪洞県の槐樹
山西省洪洞県の北西へ2キロ離れた所に「大槐樹公园」があります。
その公園は、美しい風景や、豪壮な建物があるというわけではなく、目立つのはたった一本の老槐樹の巨木があるだけです。しかし、春夏秋冬を問わず観光客が絶え間なく訪れ、この長い歳月を経た老槐樹の巨木を仰ぎ見ては木の下を巡ります。 元の末頃から明初期にかけて、戦乱、自然災害、飢饉などが続き、河北省、河南省、山東省、安徽省など多くの地方では、人口の数が著しく減少しました。しかし、山西省、特に省の南の洪洞県のあたりは、天候は順調で、経済も繁栄し、各地から難民たちもやって来ましたので、人口過密地域になっていました。
新しく政権を得た明政府は、政治の安定と经济の発展のため,洪武初年(1368年)から永楽15年までの50余年の间に、洪洞県から8回に亘って、大规模的な移民を行いました。移民される人々が集められたのは、この太くて立派な槐樹の下なので、この槐樹の巨木は懐かしい故郷のイメージになりました。
歴史の記載によりますと、明初期の洪洞県からの移民は、主に中原地域でしたが、その後、四川省や、寧夏、新彊、東北、貴州、もっと遠い辺鄙なところにも送られました。
言い伝えでは、移民の途中で人々が逃亡するのを防止するため、役人は、刀で人々の足の小指の爪を切り、その証としたそうで、そのため今でも、漢民族の人々は10人の内、5、6人は足の小指の爪が二つ分かれているのだそうです(医学上では「小趾甲複形」と言います)。
また、長距離を移動するあいだ中、移民たちは腕を後ろ手に縛られました。最初は麻痺しましたが、終にはその姿に慣れてしまいました。それで移民たちの子孫が今でもよく後ろ手を組んで歩くのだとも言われています。また、手を縛られた移民たちが排泄をしたい時は、役人に「手を解いてください」と言いました。今でも俗語に「解手」という言葉があり、よく聞きます。(辞書にも載っています)。
悠々六百年が過ぎました。実は遠い昔の槐樹の巨木はもうありません。今ある老槐樹は、その昔の槐樹の巨木の根から出て来た三代目だそうです。そして移民たちの後嗣は、中国のいたるところ、乃至海外でも生活して居ます。
「わが祖先は何処から来たか、山西洪洞大槐樹。。。。」というような民謡が何処へ行っても伝わっている理由です。