二千年前の中国・春秋戦国時代*に、悲劇の人として知られた二人の人物がいます。一人は、楚(そ)国の屈原(くつげん)で、もう一人は晋国の介子推(かいしすい)です。この二人に関わる二つの名所と二つの祭りは後世の漢文化に深い影響を与えました。その二つの名所は、湖南省の汨羅江(べきらこう)と山西省の綿山で、二つの祭りは、「端午節」と「寒食節」です。今回は、介子推に由来する「寒食節」をご紹介します。
*周の東遷から晋が三分して韓・魏・趙が独立するまでの約360年間(前770-前403)。周室の権威が衰え、諸侯が抗争のうちに淘汰され、一方相次ぐ異民族の侵入に対して尊王攘夷を名目として有力諸侯が糾合し覇権を唱えた。
綿山は私の故郷である山西省の介休市にあり、省都の太原から車で約3時間で着きます。海抜2,566mの山は絶壁が切り立ち、多数の奇異な形の石があり、樹齢を経た巨木がいたるところに自生しています。香りのよい草が地面を被い、鳥のさえずりや渓谷の流れが耳にこだまします。
その綿山は悲劇の人・介子推の物語で人々に良く知られ、綿山には、現代に至るいろいろな時代に建てられたさまざまな建築物があり、それらは重要な歴史的文化遺産となっています。
時は春秋時代、介子推は晋国の君主・献公の息子である重耳(ちょうじ)に仕える下級役人だったそうです。しかし、重耳は相続争いに巻き込まれ、迫害されて外国に逃れました。19年に亘る重耳の亡命の間、介子推は忠義の心をかたときも忘れず、無数の艱難を乗り越え、苦労を厭わずにずっと重耳の傍らにつき従っていました。重耳が餓えて歩けない時には、自分の腿の肉を取り、スープを作って重耳に食べさせたこともあったと言うことです。後に重耳は晋国に戻って国君の座に付き、春秋五覇のひとりと数えられるほどの名高い晋の文公になりました。
晋国に戻って文公になった重耳は、ずっと自分に従って亡命していた者たちに論功行賞(ろんこうこうしょう)を行い、それぞれを諸侯に封じましたが、介子推の事を忘れていました。介子推は元々富貴を求める人間ではなかったので、母親を連れて、綿山に隠棲しました。
後になって文公は介子推の事を思い出し、自ら綿山へ捜しに行きましたが見つけ出すことは出来ませんでした。文公は介子推が非常に親孝行なので、綿山に火を放てば、母親を連れて出てくるにちがいないと思いました。綿山は三日間燃え続き、山全体を焼き尽くしました。しかし、介子推は現われませんでした。介子推母子は木を抱きついたまま焼死していたのです。介子推は功を争うより死を選んだのでした。文公は深く悲しみ又深く後悔しました。綿山で介子推を手厚く葬り、廟を建て、綿山を介山と改名し、そして、介子推を記念するため、毎年、山を焼くその三日間は火を使って食事の用意をしてはいけないと世に命じました。それが「寒食節」の由来です。
晋は山西省の略称です。ですから山西省で生まれ育った私は晋の子孫だと言えるでしょう。この物語を読むたびに、心がいつも震えます。そして介子推が死よりも節操を重んじ、功名や利益よりも義侠を重んじる価値観に感服しています。そして、介子推たちのような忠臣に守られなければ、晋の文公の存在はなく、強大国の晋国も無く、寒食節もなくなります。歴史もきっとまったく違うものになってしまっているでしょうと思います。
(寒食節は、山西省では清明節の前の日になっていますが、所によってはその前の二日になっているところもあります。)