永不分「梨」
2004年1月
梨という果物は栄養成分が豊富であるほか、咳止めや通便などの薬用効果があるため多くの人々に食用されています。特に「二十四節気」の一つ、啓蟄(三月初め頃)の時,中国では梨を食べる習慣があります。

そこで、いわれがあります。「梨」と「離」とは同じ発音であり、家族同士、愛し合う2人の間、一つの梨を分けて食べることはしません。「分梨」は「分離」であり、即ち離ればなれになることです。「永不分梨」は「永不分離」(いつまでも離れないよう)という美しい願いからのいわれです。
過大年
2004年2月
中国ではお正月のことを「過大年」と言うのが普通です。旧暦なので、西暦では一定でく、一番早いのは120日前後、一番遅いのは2月の23日前後で、今年のお正月つまり「春節」は122日となっている。

日本と同じように、お正月の前の月に入ると、大掃除したり、買い物したり、お正月料理の支度をしたりして、新年の雰囲気は次第に濃くなってくる。大晦日の日は、29日である時もあれば、30日であるときもある。現在は「除夕」というのですが、大昔も「大晦日」とも言ったそうです。古人はこの日に太鼓を打って、疫病神を追い払
ったことを史書によく記されている。

大晦日の日になると、人々は、お互いに物を送り合ったり、食
事をしながらお酒を飲んだり、一晩中少しも寝ずに新年を迎えます。

でも一番重要なのは、「年夜飯」です。家族そろって、丸いテープルを囲んで、まず一番年配な方にそれから父母に御めでたい話をして食事を始める。昔の料理は、鶏や、鴨や、魚や、肉などが中心ですが、時代の流れに伴って、いまの「年夜飯」は豊富多彩になってきました。

この日から皆新しい服を着て、新しい気持ちで、新しい年を迎
えます。
中国民族楽器の真珠 
 古筝(一)
2004年3月
中国の民族楽器と言えば、皆さんはすぐ二胡のことを思い出すでしょう。中国の民族楽器の真珠と言われている古筝の話しはご存知でしょう。おそらくその音を聞いたことのある方が少ないかもしれません。

昨年9月、ユネスコ・国連教育科学文化機関の松浦晃一郎事務局長はバリで、ユネスコ「人類の口承及び無形遺産の傑作」に登録された第二回目の文化遺産を発表し、中国の古筝音楽と世界そのほか27の文化芸術がそれに登録されました。

中国の筝は長い歴史を持っているため、古筝と呼ばれて来ました。2200年ほど前の春秋戦国時代の秦国で生まれたので、秦筝とも呼ばれています。

最初の頃は五弦、十二弦、盛唐時代に十三弦、宋、明、清以後
は十五、十六弦となり、現代では、二十一、二十三、二十五などのものもありますが、よく使われているのは、二十一弦の筝です。

古筝は優雅、哀愁な抒情の曲を表すのが秀でて、気迫の盛んな曲も生き生き表現できます。昔、古筝を習うことは、貴族社会や、文人達の教養の象徴の一つでした。時代の流れにつれて、民間にも伝わり、その地元の言葉や、地方劇と結びついて、いろいろ流派も生み出されました。
中国民族楽器の真珠 
古筝(二)
 2004年4月 
唐の時代、古筝音楽は日本に伝わって来ました。日本で今でも使用されている、十三弦の琴は唐代の琴の特徴を持っています。

魏晋時代、古筝は朝鮮半島にも伝わり、12世紀の高麗朝の宮廷音楽である唐樂では、十五弦の琴を使っていますし、現代の伽耶琴は、長い歴史の間に変化してきていますが、今だ唐琴のイメージを持っているといっても過言ではないでしょう。その他、ベトナム、ミャンマー、タイにも伝わり、それらの国々の後代の音楽に大きな影響を与えてきました。

琴の名曲として、《漁舟唱晩》、《高山流水》、《梅花三弄》等が挙げられます。
中国人の姓
2004年5月
中国人の姓は3000種類あるといわれていますが、字引には900ほどが収録されています。姓の由来は色々あり、大体、動物や封国、爵位、居住地、農作物、色、技術などから由来しています。

例えば、馬、牛、熊、秦、宋、魯、王、侯、西門、柳、楊、黄、藍、陶、鍛などが挙げられます。

中国人は、非常に自分の姓を大切にし、神聖なものだと考えています。ですから、「若し、私が嘘をついたら、この姓を変えるよ!」というような誓い言葉がよく聞かれます。

昔の女性は、結婚するまでは実家の姓を名乗り、結婚すると夫の姓と実家の姓を組み合わせ、後に「氏」をつけて、「張王氏」「趙李氏」などのように名乗りました。香港、台湾では今でも「陳王愛鈴」のような、ふたつの姓に名前を付けている女性がいます。現在の中国の女性は、結婚しても、姓と名前を変えません。子供の場合は、大抵、父親の姓を使いますが、母親の姓を名乗ることもあります。そこで面白いのは、兄弟なのに、姓が違うことになります。勿論、これは例外的なことです。
三寸金蓮
歴史的な奇習「纏足」
2004年6月
先日、図書館で歴史についての資料を調べたところ、偶然に日本語に翻訳された中国の小説、《三寸金蓮》(作者:馮驥才、訳者:納村公子)を発見しました。小説の内容は別にして、この書名によって、私は思わず祖母のことを思い出しました。

 小さい頃、両親は仕事が忙しく、私はいつも祖母のところに預けられていました。祖母の足が小さくて、とても不思議でした。当時、祖母の母親もまだ生きており、同じく纏足でした。

 昔の中国の女性だった祖母は、教養の所以か、或は、その見苦しく変形した足を人に見られたくなかったのでしょう。私の記憶の中の祖母は人の前で足を洗ったり、手入れをすることはありませんでした。しかし、好奇心旺盛な私は、祖母が足の手入れをしているところをこっそり覗いたことがありました。。。。。親指のほかの4本の指はしっかり足の中心部にくっついて、表は凸になり、足全体は三角形になっていました。その足を、幅20cm、長さ3m位の白い布でしっかり巻きます。夜寝る時もそのままです。祖母の話では、4、5歳頃から纏足を始めたのだそうです。

 4、5歳の子供の骨はまだ柔らかいので、一年中足をしっかり布で巻いたら伸びる筈はありません。そのような未発達の女性の足を「三寸金蓮」と称しました。「三寸金蓮」とは、昔の女性の小さい足の別称で、「三寸」は9cmくらい、「金蓮」は蓮の花びらの喩えで賞賛の意味で使用されていました。足が小さければ小さいほど美人だと思われ、金持ちや地位の高い家に嫁ぐことができます。

纏足は他の国では見られない中国の奇習といわれていました。纏足が始まった年代は後唐か、宋代か、幾つかの説がありますが、少なくとも600年以上続けられました。清代になると纏足の禁止令が出され、清代末期には民間からも廃止運動が行われるようになり、辛亥革命(1911年)以降、この奇習がだんだんなくなって来ました。
お酢の物語   2004年7月 私の故郷――山西省の名物は、と言いますと、真っ先にお酢を挙げたいと思います。山西省のお酢は大変美味しく、特に「老陳酢」は広く知られており、とても有名です。お酢は調味料や健康食品として、人々の日常生活に欠さずにはいられないほど愛用されています。

「す」という字ですが、日本では「酢」、中国では「醋」と書きます。では、この字は誰によって発明されたのか?また、なんで「醋」と書くのか?皆さんはご存知でしょうか。

それには次のような物語があります。。。。。。。
「昔々、中興国、つまり今の山西運城市という国の杜康と言う人がお酒を発明しました。杜康の息子もその技術を身につけ、それから家族を連れて、今の江蘇省の鎮江に住むようになりました。
 ある時、杜康の息子は、お酒を作った後の粕を捨てるのは勿体無いことだと思い、甕に保存して、二十一日の酉の時刻(午後5時〜7時)に、ふたを開けて見ました。すると、今まで嗅いだこともなく芳しい匂いが漂っています。思わず舐めてみたら、なんと、甘酸っぱい味がして、たいへん美味しかったのです!その後、だんだんに知られて調味料として使われるようになりました.」

 しかし、この調味料になんと名づけたら良いのでしょうか。杜康の息子は考えた末、二十一日目の酉の時刻にちなんで、酉に二十一(中国では、二十一を廾一とも書きます)日を加えて、このあますっぱい汁を「醋」と言う名前を付けました。。。。。。

聞くところでは、今でも、お酢を作るのは二十一日間とされているそうです。
7月15日の鬼節
2004年9月
中国人は人に対するだけではなく、鬼にも暖かな情を掛けることがあります。特に7月15日の鬼節はその表れです。鬼節は道教の中元節であり、仏教行事の盂蘭盆会も同じ日に行われます。この日、地蔵菩薩が地獄の門を大きく開き、鬼たちが出てきて施餓鬼を受けるとも言われています。

「盂蘭盆経」によりますと、仏の弟子、目連が天眼の神業で地獄を覗きますと、餓鬼道に堕ちて痩せこけ、苦しみに耐えられないでいる自分の母親を見掛けました。急いで地獄に下り、食べ物を鉢に入れて母親に与えようとしましたが、悪行報いの縁なので、口元に鉢を近づける度に、その食べ物は火となってしまいます。目連が、仏陀に母親を救い出す方法を訊ねますと、7月15日に百種類の食べ物と飲み物を盂蘭盆に置き、三宝即ち仏、法、僧を供養すれば、その功徳で苦難の中の母親を餓鬼道から救い、人間界あるいは天界で安楽に過ごすことが出来ると教えられました。

 中国の「盂蘭盆会」は唐の時代に皇室から民間に至るまで盛んに執り行われるようになり、その後も清代に至るまで、寺院の重要な年行事の一つとして行われて来ました。現在でも、多くの人が亡くなった身内の人をいろいろな形で、715日に偲んでいます。併せて、燈篭を川に流して安全と幸福を祈るという習慣も民間には残っています。

 日本のお盆も8月中旬であり、丁度旧暦の7月15日前後の頃、久し振りに故郷へ帰り、お墓参りをし、親戚と顔を合わせる人達が大勢います。この伝統的な風習は中国の鬼節と同じ起源によるのでしょうか。

赤色は希望の色
2004年10月
今年は、猿年で、いわゆる干支の申年です。日本のスーバーや、百貨店で、赤色の「申年縁起肌着」が良く売れているそうです。どちらかといえば地味な色を好む日本人が、どうして中国人みたいに赤色を好むのですかと不思議に思って、看板に近づいて、説明を読んでみました。

 「申年に赤色のものを着ると、幸運をもたらす」、「申年の赤色の肌着を身につけると幸福が訪れる、病気が去る」、なるほど。。。。。。。。。

  実は、数え切れない色の中で、赤い色は、吉祥、喜び、悪魔払いの色として、中国北方の漢民族にも好まれています。お正月の赤い「春聯」(新年を祝うお目出度い文句が書かれた赤い対聯。門や入り口の両側に貼る)、爆竹、祭日の提灯、勝利を示す旗、又伝統建物の赤い玄関、柱、庭壁など、いずれも熱烈な赤色です。

 人生の最大の喜びは、結婚式ではないでしょうか?その日、お花嫁さんの服装だけではなく、じゅうたん、蝋燭、風呂敷、お土産の表紙、などなど目に映る全世界は赤色の世界で、結婚式は「赤い喜事」とも言われています。
 赤色は、もう一つ重要な役割があります。これは、魔よけや禍を避けることなのです。「本命年」(自分の干支の年)や、「逢九年」(年齢が九に逢う年、たとえば、18歳、19歳、27歳、29歳、36歳、39歳、45歳のような年 )は、多事多難の年と言われていますから、人々は必ず、赤い肌着や、赤い靴下、赤いベルト、赤いインソールなどを使うのです。

 赤い色、この暖かい色は人々のさまざまなの希望と祈りの象徴なのです。
囲碁の起源と「棋子山」
2004年11月
私の故郷・山西省には、陵川という県があり、陵川県には、「棋子山」と言う山があります。その山には、数十平方キロメートルの広さのところに、数え切れない黒色、黄色の扁円形の天然の石が置かれて、まるで布石をしたように見えるのだそうです。

この山は太行山脈(山西省、河北省、河南省の間にある)の南にあり、昔は、交通不便で、あまり人々に知られていませんでした。十年前、ある学者が、その山の名前の起源を調べたことがきっかけとなり、商周史、甲骨学、易学、天文学、地理学等の分野での研究によって、驚くようなことが発見されました。つまり、「棋子山」は殷の古人が天像を観測した場所であるとともに、四千年ほどの歴史と様々な謎に包まれた囲碁の発源地だと発表されました。

「棋子山」は、「箕子山」とも呼ばれていました。箕子は殷代末帝の紂王の叔父にあたる人物で、有名な貴族でもあり、「箕子山」は箕子の封地でした。箕子は卜筮家(占い師)だそうです。山の、ある古い洞窟の天井には、古代の碁盤の図柄が残されており、箕子が卜筮(占い)や囲碁を研究した跡だと考えられています。

西漢班固の著作《奕指》(囲碁を打つ技法の本)に、早期の囲碁色は「黄黒陰陽分也」と言い、また、《後漢書》の作者範曄は、占い術を「箕子の術」と言い、沈括の《夢渓筆談》に、占い師は「医卜無所不能、棋与国手為敵」(占い師は医術、囲碁など何でも出来る、囲碁の技術は国の囲碁の一番高いレベルの人と比べられる)と述べ、さらに、辞書にも、「棋卜」という語彙を「碁を用いて禍福を卜う」との解釈があります。以上のことから、碁石の最初の色は黄色と黒色であり、囲碁の起源は卜筮と密接な関係を持っていることが判明しました。また、陵川県の民間では、古い「占方」という棋類が流行って、学者たちの研究結果により、この古い「占方」は囲碁の雛形であり、後世の囲碁の基本的な布石の「天元」「四時」「九星」などを備えていると判明されました。

山西省陵川県の「棋子山」は、中国の囲碁の発源地として、だんだん沢山の学者に認められるようになり、この巨大な碁盤はますます世界からの注目を浴びるようになるでしょう。
干支の話
2004年12月
先日、面白いニュースを聞きました。

今年、中国全土で、多くの病院の産婦は、去年より2、3倍多くなって、病室や病床が足りなくなり、病院の事務室や院長室まで利用されることがあったそうです。

どのような理由によるのでしょうか?

 実は、これは中国人の干支に対する好みが引き起こしたことなのです。今年は猿年で、中国の民間では、窓煢歯阜秩i金色の猿年の人は貴族に成れる)などの伝統的な考え方があり、猿は吉祥の象徴なのです。このような理由で中国では猿年の子供はとても可愛がられています。

 一方、昨年は羊年で、羊は、中国では、優しくて弱いというイメージがあります。羊年の人は、一生不運であるとも言われ、羊年の出産を避けたい風潮があります。また、来年は鶏年ですが、中国語では、「鶏」と「飢」は同じ発音で、生涯、充分な食べ物を得られないと思われ、鶏年の出産もあまり望まれないのです。したがって、羊年も鶏年も子供をできれば出産したくないと思う人が多く、猿年にあたった今年、産婦が特別に増えたのです。

中国では猿以外で人々に好まれる年は、龍、馬、虎、牛などがあり、中でも、龍年の子供は「龍の子」と言われ、龍年もいつも出産を希望するひとが増えます。ということは、数年後、十数年後、入園、就学、就職などでいろいろ競争状況が生じることになります。

専門家はいつも、根拠のない古い考え方を捨て、国の未来のため、子供の未来のため、より良く生活しやすい環境を創ろうと呼びかけています。しかし、人々が長い期間で形成された考え方を変えるには時間が掛かる事でしょう。
媛媛来信 1 (2004年)