中秋節の思い出
2005年9月
 中国には伝統的な祭りが、殆ど毎月あります。今月(旧暦8月)の祭りと言えば「中秋節」で、中国の人たちに最も大切にされている祭りの一つです。

 中秋節は八月十五夜の満月の夜の祭りですが、私の頭に浮かぶ風景は、庭の丸いテーブルの上に線香を立てた香炉が置かれ、手作りの月餅、色々な果物を供えた景色です。しかし、この風景は私の幼い頃、私のお祖母さんの家の中秋節の風景で、今はほとんど見られなくなりました。

 その頃は商品は今程豊富ではなく、お百姓の生活も今より貧しい時代でした。それでも、人々は伝統的な祭りを重んじて、知恵を精一杯絞り、祭りを楽しく過ごす工夫をしました。この日に欠かせない月餅は全部、私のお祖母さんが手づくりで作りました。小麦粉に黒砂糖や、胡麻油を混ぜてじっくり捏ね、木で作った様々な型に入れます。形が出来ると、囲炉裏に入れてゆっくりと焼きます。もう少し贅沢なものは、金木犀の花と蜂蜜で作った餡の入った月餅です。果物等は、田舎の親戚から送くられてきました。棗、山楂子、葡萄、トウモロコシ、枝豆、リンゴなどいろいろあります。

 日が暮れ、金色の真ん丸いお月様が徐徐に顔を出して来ると、皆はテーブルを囲み、一家団欒の夜が始まります。お祖父さんが謹んだ顔で線香に火を点すと、皆は手を合わせてお月様にお辞儀をし、家族の健康、平安、親睦を祈ります。満月へのお祈りが終わると、大人達は子供たちに食べ物を配り始めます。どれもこれもが年に一度食べられる珍しい食べ物ですので、皆すぐには食べないで、自分だけが知っているところに隠したりします。何日間も掛けて楽しんで食べるつもりなのです。ですから、自分の物を食べなく、他の子の物を盗んで食べるずるい子が現れたりで喧嘩が始まったりしました。。。。

八月十五夜の月は、一年中で一番大きい、一番丸い月だと言われています。その月の下で、何よりも美味しく思われる月餅を食べながら、お祖母さんからお月様に関する物語を聞いたりします。毎年、殆ど同じような「嫦娥」(*)や「玉兎」や「桂樹」の話ですが、いつも初めて聞くように、興味津々でした。

 中秋の頃は収穫の季節です。中秋節は思う存分にこの豊かな季節の恵みを受ける祭りでもあるといえます。社会が高度発展を遂げた今日、スーパーでは高級な月餅、果物などを何時でも手に入れ、テレビでは多彩な番組を何時でも見ることができます。けれども、子供時代の、お祖母さんの手づくり美味しい月餅、そしてお月様に関する古い物語は、私にとって永遠の懐かしい思い出です。

*「嫦娥(じょうが)」(中国の神話の人物)
 かつて10個の太陽によって地上が焼けた時に、宝弓と神弓によって9つの太陽を射落とし、残る一つの太陽にもその出現の時間を決めさせたのが后羿(こうげい)で、その功績によって河川の神河伯の娘・嫦娥を娶る。嫦娥は、今は月の精として知られ、美しい女性の例えにもその名が使われる。
 后羿(こうげい)は狩りの途中、老道士から不老長寿となって仙人になれるという薬を貰うが、妻や周囲を思うと呑めずにいた。彼の多くの取り巻きの一人、蓬蒙が、この薬を欲し、后羿(こうげい)の留守に嫦娥に薬を求める。嫦娥は困り果て、蓬蒙に奪われるよりはと、自分が呑み、天に昇るが、夫恋しさに天まではいかず月にとどまった。これが8月15日のことで、毎年この日に嫦娥は月宮を出て地上を見下ろすといわれている。このため8月15日の月は特別に丸く美しくなる。また、后羿(こうげい)も嫦娥を思ってこの日になると月に捧げ物をしたのが中秋節の始まりとも言われている。
重陽節
2005年10月
旧暦九月九日は「重陽節」です。

 古(いにしえ)の中国の人々は、天地万物は陰と陽に分類されていると考えていました。奇数は縁起の良い「陽の数字」とされ、中でも一番大きな陽の数字である「九」が重なる九月九日は、陽と陽が重なるので「重陽」と呼んでいました。

 「九」は中国語の「久」と同じ音で、長久平安の意味があり、昔から人々に重視されていました。また、「重陽節」は「登高節」とも呼ばれています。その由来には、次のような物語があります。
後漢の費長房は汝南の桓景と言う人に「九月九日、あなたの家に災いが起こります。赤い袋に茱萸の実を入れて、肘にかけ高いところに登って菊花の酒を飲み、災いを避けましょう」と言いました。

桓景は言われたとおりに家族と共に山に登り、夕に帰宅して見ると、家畜が皆死んでしまっていました。それ以来、人々は九月九日には茱萸を身につけ、高いところに登り、菊花酒を飲むという風習が始まったというのです。
辮髪の話
2005年11月
 皆さんは、中国清代の歴史劇をご覧になった事があると思いますが、清代の男性の髪形は面白いなあと思いませんか?

 清国は満族によって建国されましたが、満族の祖先は女真族なので、髪形も女真族の特徴を引き継いでいました。

 女真族はアジア北方の狩猟民族で、一年中見渡す限りの森に住み、馬に乗って猛々しい野生動物たちと戦い、険しい山々を走り、狩猟生活をしていました。そのため、女真族の服装や、髪形はいずれも狩猟行動に便利なようにしていました。前髪が垂れて視線を遮るのは、馬上での行動では危ないので、頭の前半を剃って、後半部分だけを辮髪にしたのだそうです。

 公元1645年、満族は北京を攻め落とし清国を興しました。その時、漢族の官民が髪を剃るか剃らないかということは、清国に帰服するのかしないのかという証(あかし)になりました。古くから、体と髪は父母からの贈り物で、大切にしなければいけないと思う漢民族にとって、頭を切られても髪は切らないと、命と血で清国の「剃頭令」に反抗しました。しかし結局は、清国の200年あまりの歳月の間に、漢族も満族と同じように辮髪の髪型が定着しました。

 歴史が工業時代を迎え、西洋人から嘲笑され、また、辮髪は衛生面からも、機械操作の面からも、古臭く不都合だと国民の多くの人々も気がつきました。古い法を破り、維新を行い、辮髪を切ることは、文明の象徴になりました。面白いことに、200年前の「剃頭令」の時と同じように、髪型の革命は大変な騒ぎを引き起こしました。

 日本の歴史でも、武士たちは馬上の戦争に便利なよう、前髪を剃って、ちょんまげを結っていました。その後、明治維新を迎え、旧習打破と文明開化の証として「断髪令」が発令された折の、髪の革命も大変だったということです。中国と日本の似たような髪の物語は興味深く面白く感じませんか。







中山服(中山装)の由来

2005年12月
 「中山服」(中山装)は、かつて中国の「国服」と呼ばれ、特に1949年建国以後から改革開放までは、公的な場所では、10人に8,9人が中山服の姿でした。

 「中山服」は、その名前のとおり、国民党の創立者――孫文、つまり孫中山(注1)と深い関係があります。1911年の辛亥(しんがい)革命前、反清崇洋の知識人たちが多数、日本、ヨーロッパから中国に戻り、相ついで辮髪を切り、清の礼装を脱ぎ、洋風な髪の形にして、洋服を着始めました。

 「辛亥革命」(注2)の成功後、「辮髪を切り、服装を換える」ということも、改革の要点の一つとなりました。しかし、辮髪を切った後、どのような服装が中国人にふさわしいか広く議論されました。200年間続いた清の礼服を引き継ぎましょうと言う人もいましたが、清の礼服は、生活上いろいろ不便で、生地も贅沢です。ヨーロッパに留学した人々は洋服を着ることを主張しました。それを聞いた孫文は大笑いし、「それは、中国貨をボイコットすることと同じではありませんか?」と反対しました。

 そして、孫文は自分でデザインしようと決意しました。中国の寧波服装業界の助けによって色々なデザインを考え、細かく検討した結果、1916年に正式な「中山服」が誕生しました。きっちりと首許を引き締める襟は、圧力と危機を象徴、前の四つのポケットは「禮、儀、廉、耻」の美徳を象徴;袵の五つの釦は国の五権―「行政、司法、立法、考試、监察」を象徴;ポケットの四つの釦は;人民の四つの権利―「選挙、創制、罷免、複決」を象徴;袖口の三つの釦は、三民主義の「民族、民权、民生」の三大原則を象徴しています。

 「中山服」のデザインは、素朴ながら端正で、格式もあり、1929年、国民党中央政府の命令で党と政府の役人の礼服として定められました。それ以来、国民党も共産党も「中山服」を礼服として着続けて来ました。特に毛沢東の時代は、どこへ行っても指導階級の人々は、殆ど青色や、灰色の「中山服」でした。

時代の推移と共に「中山服」は歴史を記念する服装になり、古董品になってしまいました。アルバムには、私自身の「中山服」の姿も残っています。中国がまだ「中山服」時代だった少女の頃、中山服を着た男性たちの、逞しくきりりとした姿が羨ましく、父の服を借りて写真館で撮ったものです。その写真を見るたびに、時代の流れに纏わるいろいろ複雑な思い出が頭の中に浮かび上がってきます。


注1 孫文(1866~1925) 中国の革命家。日本に亡命中、中
山樵(なかやまきこり)と名乗ったことにより、中山と号
し、 中国で敬称の際は孫中山と呼ばれる。
注2 辛亥革命 中国で清朝を倒し、中華民国を立てた革命。
辛亥とは1911年の干支である。

媛媛来信 1 (2004年)