『歴史と視点』 - 私の雑記帖     

                司馬遼太郎 著    新潮文庫

                      


膨大な歴史小説を書いた人の「雑記帖」である。小説からこぼれたネタが、飲み屋の会話のようにざっくばらんに語られている。

 中でも、作者の実体験に基づく「歴史的証言」が興味深い。戦時中、彼は戦車に乗っている。この「戦車」がかなりあやしい乗り物だったらしい。

 まず、運転しづらい。動かすたびに、エンストする。さらに、装甲板ではなく、普通の鉄で作られており、ヤスリで削ると傷がついた。ヤスリで実際に削った、作者その人は「心の冷える感じをもった」という。ちなみに、「ただの鉄という戦車」は、昭和の陸軍が持っていた以外に、世界でまったく例がないそうで。ヤスリで傷ついちゃう戦車。存在自体がありえない。

 「心の冷える」エピソードをもう一つ。作者は北関東の連隊にいた。使命は、敵が相模湾か東京湾に上陸したら、この使えない戦車で道路を南下して撃退すること。その作戦のために、大本営から人が来た。作者は素朴に質問する。敵が上陸したら、南下するはずの道路は、逃げ惑う人々で溢れる。大八車に家財道具を積んで北上してくる人々が溢れる道路で、どうやって戦車は南下するのでしょうか、と。   作者曰く、太平洋戦争は「官僚秩序が硬直しきったころ」に起きた。フリーズした官僚秩序にいたであろう、その問われた人は、言葉を失った後、 「轢っ殺してゆけ」と、いったそうである。

 アメリカの戦車にはとうてい勝てない戦車は、大八車には勝てるだろう。「しかしその大八車を守るために軍隊があり、戦争もしているというはずのものが、戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が前面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなるのである」と作者は語る。

 読者は、あれだけの莫大な被害を引き起こした戦争は、負けるべくして負けたのだと実感として悟る。あの十五年戦争は、日本は地理的に対外戦争などできる国ではなかったという「小学生なみの地理的常識を再確認しただけ」という著者の言葉に、心が冷えた。(真中智子)



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