娘と話す アウシュヴィッツってなに?     

アネット・ヴィヴィオルカ 著  山本規雄 訳         現代企画室

                      


  映画「悪人」を観た。人を殺したその男が祖母や恋人に見せる優しさ―果たして彼は「悪人」なのか…と私が書いてしまうと陳腐で申し訳ないのだが、この本にも収容所では殺戮者だったナチス兵士が、家庭では音楽を楽しみ、文学を論議する「普通のドイツ人」だったとある。一方、同じ時期、アジアの人たちを苦しめた日本は、ユダヤ人には寛容で、日本人が彼らを支援した事実もある。ヒットラーの再三の迫害要請にもかかわらずだ。

 様々な要因がからんで「殺さなくてはならない」という結論に至ったとき、優しい父親は殺人者となる。戦時中の日本も同じく。

 さて、もし私が当時のユダヤ人だったら。ある日、郵便受けに人口調査のため警察署か市役所に出頭するよう通知が入っている。何気なく出頭した私はどこかへ連れて行かれ収容され殺されてしまう。ユダヤ人という理由で。

 いや、私なら、役所には面倒で行かないだろう。そして朝、いつものように職場へ向かうため家を出る。すると夜明け前から待機していた警察に捕まり、どこかへ連れて行かれて、収容され殺されてしまう。ユダヤ人という理由で。

 運良く、私は収容所で生き延びた。しかし、仲間が殺されたのに、なぜ自分だけが生き残ってしまったのかという「罪悪感」につきまとわれ、ついには自殺まで考える。いずれにせよ、悲惨なのだ。ユダヤ人だった、という理由だけで。

 解説を書いた四方田犬彦氏は「私たちはどうすればいいわけなの?」という娘にこう答えている。「何もできないさ。とにかくこれは実際に起きてしまったことなのだから。(中略)人間が救済されるのは、ただ知識と認識を通してのみなのだ。悲惨なことを知ること、想像することは、一時的には苦しい体験かもしれないが、その苦しみは永久的には続かない。ものを知ることは、最終的にはきみをより自由な場所に立たせることになるだろう」。(真中智子)



中国を読む・目次へ戻る      TOPへ戻る