この国のかたち 一                 司馬遼太郎 著       文春文庫

                      

  82回を迎える拙欄ですが、気が付けばタイトルが2文字になっていて、思わず笑ってしまった。いや、笑ってはいけない。「中国を読む」でスタートしたのに、私がすっかりふらふらして、結局、テーマがなくなってしまった。本当にすみません。

 拙欄で、一番登場回数の多い司馬遼太郎は、大学の受験対策で読み始めた。日本史まで手が回らなかったので、小説を読んで誤魔化そうとしたのだ。結局、日本史は苦手教科のままだったけれど、教科書では数行で終わってしまう事実のなかに、膨大な物語があること、また、時代を接いで小説を読んでいくと、歴史は季節のように連続性を持って、しかし確実に移ろっていくことが分かってきた。(そして、きっと「繰り返す」のだろう)。

 この本でも、「たとえば、兼好法師や宗祇が生きた時代とこんにちは、十分な日本史的な連続性がある。また、芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期とこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる」とある。ただ、「昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は」、「日本史のいかなる時代ともちがう」と、氏は言い切る。

 氏によれば、当時の日本は、織田信長が活躍した時代の武器を持って、アメリカと戦争をしたようなもので、そのおろかな二十年間は「異胎の時代」だった。その出発点は、さらに二十年ほど遡る。そこには、日露戦争でボロボロになった日本が、ぎりぎりの条件で結んだ講和条約に満足しなかった大群衆がいる。「講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ」という民衆の叫びこそが、出発点だった。

 さて、その時代を経て66年。この本は1990年に単行本が発行されているが、すでに氏は、当時の社会について、「平面的な統一性」「文化の均一性」「ひとびとが共有する価値意識の単純化」を指摘し、「価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性の方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか」と警告を鳴らす。

 ちなみに1990年とは、バブルが崩壊した年。それからさらに20年が経った



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