この国のかたち ニ                 司馬遼太郎 著       文春文庫

                      

 もうすぐ今年も終わる。毎年、紅白歌合戦後の真夜中の年明けに、神社へ向かうのだが、神社では甘酒とお汁粉を用意してくれている。

 ちなみに、著者によれば、人が神社に手を合わすとき、現世利益よりも、「斎き祀られた厳くしいものに対して畏敬を感ずるという気分がつよい」。例として、ポンペ神社を挙げる。

 これは、ある医師の生家にある神社である。ポンペは江戸幕府から招聘されたオランダ人で、その医師の祖父が教えを受けた人である。祖父は、「ポンペ先生の恩は忘れられないとして、庭に一祠をたてて」朝夕拝んだという(ちなみに、ポンペ自身はクリスチャンで、この神社のことを知れば、「目をまるくしたにちがいない」と氏は結んでいる)。「特定の山や場所、樹木などを聖なるものとして敬した」ことが、古神道だった。

 これに対して、仏教は「解脱だけを目的としている」。氏によれば、「解脱とは煩悩から解き放たれることで、本来の仏教というのは、極端にいえば解脱の必要と、そのための多少の方法しか説いていない」。ただ、普通の人間には、解脱はなかなかできることではなく、それではいっそ解脱した人を拝んでしまえ、というところから、大乗仏教が生まれ、仏教に救済という現世利益が入ってくる。

 さらに、キリスト教は、「いきなり神がわれわれを救ってくださる」救済の宗教だという。キリスト教は、1549年にフランシスコ・ザヴィエルによって日本に伝わった。

 ザヴィエルは、スペイン領のバスク人で、顔が東洋系にやや近かったという。「ザヴィエルがバスクという少数民族の容貌・体型をもっていたことが、当時、かれをみた日本人たちにとっていっそう親しみを深くした」と氏は述べている。意外なキリスト教伝来の裏話だ。

 当時の日本は戦国期で、「個人個人が自分の生死をきめ、自分の宗教観を、自分の手でもとめざるをえなかった時代」だった。いわば「日本史の青春のころ」にキリスト教は伝来したのである。

 クリスマスを祝い、年越しの鐘を聴き、神社に初詣するこの時期、すべての神様に、1年無事に過ごせたことを感謝したい。


(真中智子)



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